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トップページ > 醸造 > 日本酒 > 湯沢のお酒・おいしい理由

 

 日本酒のおいしいことで知られる秋田県の中でも、湯沢市はかつて「東北の灘」と呼ばれるほど、酒造りが盛んな土地でした。市内にはいくつもの蔵が立ち並び、最盛期には20を超える銘柄が造られていました。そして、現在も老舗ののれんを守りながら、世界に認められる銘酒を造り続けています。
おいしい日本酒を造るにはいくつかの条件があります。原料になる米。大量に使われる水。発酵を左右する環境。常に時代に沿った味を生み出す技術。そして、厳しい環境の中でも確実に作業をこなす実直な蔵人の存在。これらが整って初めておいしい日本酒が出来上がります。さらに良質な酒を消費する市場が欠かせない存在です。湯沢市は、その全ての条件を満たしているため、日本酒造りが盛んになりました。

 

 1.「米」

 日本酒の原料になる米にはたくさんの種類があります。特に日本酒造り用に品種改良されたものを「酒造好適米」と呼びます。湯沢市では、昭和26年に山田村(現湯沢市山田地区)に酒米研究会が結成され、秋田県農業試験場と連携しながら、新品種の開発に取り組んできました。酒造好適米は病虫害に弱く、倒れやすいとされ、非常に栽培が難しいといわれます。酒米研究会の皆さんの熱心な取り組みのお蔭で、今では「美山錦」や秋田県オリジナル品種「秋田酒こまち」など、優良な酒米を生産・販売しています。今では秋田県内のおよそ70%の酒米が湯沢市で栽培されているのです。

 

 2.「水」

 名水の地に銘酒あり。全国の銘醸地の多くは、水のおいしいところといわれます。水は発酵作用に欠かせない大切なもの。そして、大量に使われます。洗米、蒸きょう(米を蒸すこと)、仕込み、割水と製品になるまでには常に水を必要とします。酒造りに向いている水とは、清澄であることはもちろん、発酵を担う微生物の働きを活発にするためのミネラルを豊富に含むことです。栗駒山麓の西側に位置する湯沢市は、湧水の多い町です。特に名水で知られる「力水」は、湯沢市民に親しまれ、毎日水を汲む人が列をなしています。江戸時代には佐竹南家の御膳水としても使われていました。適度なミネラルを有し、まろやかな味わいの名水です。市内の酒蔵の多くは、昔からこの伏流水を使って酒を醸してきました。

 

 3.「環境」

 酒造りは、タンクの中で行われる微生物による発酵を適切に整えてやることです。蒸米、麹、水、酵母が一つのタンクの中で相互に作用しあい、酒を造っていきます。麹は、その酵素を使って米を分解します。分解されたブドウ糖を清酒酵母がアルコールに変える作用を発酵といいます。一つのタンクの中でこうした分解と発酵が滞りなく行われるためには、環境を整えることが大切です。清潔な環境の中、温度管理をしながら1本1本の成長を見守るのが蔵人の役目なのです。酒造りの最盛期になる冬には、大量の雪が積もる湯沢市。実はこれも酒造りにとっては、重要な条件なのです。雪は空中の塵を地表に落し、清澄な空気をつくります。低温で発酵させる日本酒にとって、冷涼な冬は非常に理にかなった季節なのです。厳寒の季節でも、蔵は雪の壁に覆われ、室温調節には最適な環境といえます。このように、気候条件に恵まれた環境が銘酒を生み出しているのです。

 

 4.「技術」

 全国に銘醸地湯沢の名前を広めた背景には、先人のたゆまぬ努力と技術革新がありました。
藩政時代には、伊勢の国出身の酒造技術者を招いて指導に当たらせました。また、当地の帯屋市兵衛(初代高久多吉氏)を摂州(兵庫県)伊丹の小西新右衛門(「白雪」醸造元、現小西酒造株式会社)方に3年間酒造技術習得のため出向させ、帰藩後、藩主の御用酒屋を務めさせています。
 明治41年(1908)に開催された日本醸造協会主催による第一回酒造講習会には、当市の伊藤隆三氏(両関)が参加し、新しい技術の導入に努めました。これに先立ち、前年の明治40年に行われた第一回全国清酒品評会では、「両関」「庭の井」の2名柄が一等賞を受賞(審査点数2,138点、優等5点、一等48点)しています。
その後も、銘醸地灘・伏見とは異なる土壌・気候の当地にあった醸造法を研究し、「低温長期醸造法」を確立しました。そればかりではなく、県内外の酒造家から乞われ、その技術を隠すことなく伝えました。そのため、東北の酒造技術は格段に向上したといわれています。東北の酒造りの基礎は、湯沢から広まったといっても過言ではありません

 

 5.「蔵人」

 酒造りの現場は、かつて女人禁制といわれ、女性は酒蔵に入ることさえ厳しく禁じられていました。様々な理由が伝えられていますが、厳寒の季節、体の芯まで冷える酒造りの環境は、女性には厳しすぎることも理由の一つかもしれません。
 かつて、酒造りは、杜氏が蔵人を伴い一冬蔵に入り、共同生活をしながら行っていました。湯沢では、農家の人たちが秋の収穫を終えると酒蔵に入り、春の田植えの時期まで酒造りをしていました。その中から、有能な人材が育ち、杜氏としてその蔵の酒造りを任されます。秋田県では、横手市山内地区から多くの杜氏が生まれ、山内杜氏として活躍しました。
 酒造りの集団は、ピラミッド構造になっています。杜氏はその頂点に位置し、酒の味を決める重要な役目を担います。酒造りは、精米、蒸し、麹、酛(モト…酒母)、醪(モロミ)、圧搾とそれぞれ分担して作業を進めていきます。特に仕込みが進むと、いくつもの作業が順を追って並行して進められていくため、高度な技術を要します。そのため、蔵人のチームワークがとても重要になります。どこか一つでも手違いがあるとその後の作業にも影響します。酒造りはチームプレーなのです。
 多くの蔵人は、夏に米を作り、秋から春まで毎年同じ酒蔵に入り酒を造ります。雪解けの春には、甑倒し(仕込みに使う米を全て蒸し終わり、使った道具「甑」を横に倒して洗うこと…仕込みが全て終わったことを言います)をし、また新しい米づくりに励む。連綿と続けられてきたこのサイクルを、湯沢の蔵人たちは坦々とこなし、たくさんのうまい酒を造り続けています。

 

 6.「市場」

 鉱山開発が盛んだった藩政時代、秋田県内には400を超える鉱山があったといわれます。中でも、院内銀山は国内最大の銀山として、全国から技術者や労働者などが集まり、最盛期には、鉱山の中だけでも7,000人を超える人口がありました。また、周辺の町を含めると、その賑わいは佐竹藩の城下町、久保田(現秋田市)を凌ぐ勢いがあったそうです。人口が増え、大きな市場となった銀山町では、消費される酒の量も増えます。ところが、当時は湯沢の酒よりも大山(現山形県大山)の酒の方が一段格上とされ、値段も高かったのです。これを残念に思った湯沢の商人、伊藤仁右衛門が酒造りをはじめ、技術の向上を図り消費を拡大、やがて大山酒を凌駕することになりました。鉱山の発展が、湯沢の酒造業の礎になったのです。